続日本100名城 No.183:久留米城

※2019年5月2日撮影
基本データ
- 築城年代:1587年(天正15年)、1621年(元和7年)
- 別名:笹原城 [Sasahara-jō]、篠原城 [Shinohara-jō]、篠山城 [Sasayama-jō/Shinoyama-jō]
- 構造:平山城
- 築城者:毛利秀包、有馬豊氏
- 主な城主:丹波氏 → 毛利氏 → 田中氏 → 有馬氏
- 所在地:福岡県久留米市篠山町444
- 関連ページ:篠山神社(久留米城跡)
概要
有馬氏21万石の居城。久留米城が歴史に登場するのは永正年間(1504年 – 1521年)と言われており、詳しくは分かっていませんが、この地の在郷勢力が宝満川と筑後川の合流起点となる天然の要害に恵まれた小高い丘に築城したのが始まりとされています。
1587年、豊臣秀吉による九州平定後、小早川秀包(毛利元就の9男で小早川隆景の養子、大友宗麟の娘婿)は筑後3郡7万5千石を与えられて、久留米城に入封しました。
秀包は秀吉の信任も厚く、その後も各地で転戦して武功をあげ、最終的には13万石まで加増されましたが、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し、戦後所領を没収されました。
秀包の改易後、関ヶ原の戦いの功により、田中吉政が筑後一国32万5千石で柳川城に入城。
久留米城は吉政の支城となりましたが、1620年(元和7年)、後を継いだ忠政が嗣子なく没し、代わって丹波福知山から有馬豊氏が21万石で入城しました。
有馬氏入封後、70年の歳月をかけて城は大改修され、今日残る久留米城と城下町を形成し、以後有馬氏11代の居城として明治維新に至りました。
明治期の廃城令で建物は全て撤去され、現在は内郭も二の丸、三の丸はブリヂストン久留米工場の敷地と化し、本丸跡が篠山神社として高々とした石垣を残しています。

本丸を固めた多門櫓と三重櫓群
かつての本丸には天守こそ建てられなかったものの、白亜の三重櫓が七棟も建ち並び(中でも本丸南東に位置する最大規模の巽櫓が実質的な天守だった)、それら櫓群を塀ではなく二重の多聞櫓で連結する特異な威容を誇った。

このガッチガチに固めたイカツイ感じ、タイプ・・・♥


交通
JR鹿児島本線「久留米」駅より徒歩で約15分
※その他西鉄バスのルート有り

城下町のおいしかったリスト
久留米自体に行った回数が多いとはいえ、どんだけラーメン好きやねん、わし・・・。
もちろん、上に挙げた店以外にもたくさんおいしそうなお店あるので、久留米に立ち寄った際にはぜひご賞味あれ!



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※2020/11/28 更新