日本100名城 No.89:佐賀城


※2018年9月16日撮影
基本データ
- 築城年代:1608年(慶長13年)、1726年(享保11年)、1835年(天保6年)
- 別名:村中城 [Muranaka-jō]、佐嘉城 [Saga-jō]、栄城 [Sakae-jō]、亀甲城 [Kikkō-jō]
- 構造:平城
- 築城者:鍋島直茂 [Nabeshima-Naoshige]、鍋島勝茂 [Nabeshima-Katsushige]、鍋島吉茂 [Nabeshima-Yoshishige]、鍋島直正 [Nabeshima-Naomasa]
- 主な城主:鍋島氏
- 所在地:佐賀県佐賀市城内2-18-1
- 管理団体公式サイト:佐賀県立佐賀城本丸歴史館
概要
鍋島氏35万7千石の居城。関ヶ原の戦い後、徳川家康に佐賀藩主として正式に認められた鍋島直茂・勝茂父子は、主家にあたる龍造寺氏の村中城を拡張し、1611年(慶長16年)、今日残る佐賀城の主要な部分を完成させ、本丸には小倉城に似た破風を持たない5重天守がそびえていたと言われています。
公益財団法人鍋島報效会が所有している「慶長御積絵図(けいちょうおつもりえず)」は、直茂・勝茂が当初構想していたと思われる、佐賀城及び城下町の都市開発計画を記録した貴重な資料として現在に伝えており、実際に築かれた石垣・櫓・城門を見る限り未完成に終わっていることが明らかとなっています。
これは、鍋島家が幕藩体制に組み込まれて行く中で諸大名と同じように公儀普請への多額な出費が財政を圧迫したためと言われており、1615年(慶長20年)に豊臣家が滅亡、武家諸法度が制定され徳川幕府が盤石になった頃、ついに勝茂は「大佐賀城構想」を断念しました。
なお、佐賀城の威容を誇った5重天守は、高さ約38mに及ぶ高層建築でしたが、1726年(享保11年)に火災で焼失し、以後再建されませんでした。

その後も幾度か火災に見舞われ、さらに明治期に入ると「佐賀の乱」が勃発し、戦闘の際に建造物の殆どが失われました。
現在、城内には現存する鯱の門及び続櫓と平成期に復元された本丸御殿、さらに慶長時の技法を伝える切り込みハギの石垣、広大なコの字状に残る、幅70m余りに及ぶ「四十間堀」が往時を偲ばせています。
因みに、佐賀城は「沈み城」という異名も持ちますが、これは元々有明海に近い低湿地帯に築かれており、城が攻撃を受けた場合に海水を引き込み、主郭部分を残して周囲を水没させる造りになっていることに由来しています(諸説あり)。




交通
JR長崎本線「佐賀」駅から佐賀市営バス「佐賀城跡行き」で約10分 → 「佐賀城跡」下車

城下町のおいしかったリスト
- 洋食屋かごしま
訪問時、ビーフカツ定食をいただきました。一時閉店を経て復活した模様。
今度は牛タンシチュー食べたい。

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※2020/11/23 更新