【お城】彦根城 -Hikone castle-

日本100名城 No.50:彦根城

基本データ

  • 築城年代:1604年(慶長9年)
  • 別名:金亀城 [Konki-jō]
  • 構造:平山城
  • 築城者:井伊直継 [Ii-Naotsugu]・直孝 [Ii-Naotaka]
  • 主な城主:井伊氏
  • 所在地:滋賀県彦根市金亀町1-1
  • 管理団体公式サイト:彦根市観光協会

概要

徳川四天王の一人、井伊直政は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの功により石田三成の旧領・近江18万石と佐和山城を与えられました。

直政は、旧領主かつ徳川の仇敵である石田三成がかつて善政を敷いていたこともあり、三成を慕う領民の人心を一掃し、井伊氏こそが新たなこの地の領主であることを顕示するため、彦根山に新たに築城を計画します。

ところが、直政は関ヶ原の戦いから僅か2年後に亡くなり、その子・直継が遺志を引き継ぎ、20年の歳月をかけて、彦根城は完成しました。

彦根城の大きな特徴として、大津城、佐和山城、小谷城、観音寺城といった、琵琶湖周辺に点在する各城の建材を転用している点が挙げられます。

近江国は地理的にも東西の日本を水路・陸路で結ぶ交通上の最重要地であり、1606年(慶長11年)には早くも主郭部分が完成、直継は本丸に移り住み、この頃に佐和山城を廃城としています。

その後も城域の拡張や修繕が幾度か行われ、幕末まで井伊氏の居城として明治維新を迎えます。

明治時代に入ると、「廃城令」によって他城の例に漏れず、彦根城も解体される予定でしたが、巡幸で彦根を訪れた明治天皇による保存の意向により、破却を免れたと伝わっています。

なお、現存する三層三重の天守、および附櫓・多聞櫓は国宝に指定されています。


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見どころ

  • 天守(国宝)
    もともと4層だった大津城天守を3層に改修した影響もあって全体的にずんぐりとした印象を与えるが、花頭窓や切妻破風、唐破風、千鳥破風をふんだんに飾った意匠で、これほど華美さを詰め込んだ天守は他にないのではないでしょうか。(天守界の宝石箱や~)
    そんな外観の様式美の中にも4ヶ所の隠し部屋や82ヶ所の鉄砲狭間・矢狭間を設けており、極めて実戦的な設計も施されています。
  • 天秤櫓(国重要文化財)
    長浜城大手門を移築したものと伝わっています。
    廊下橋に接続する櫓門部分を中央に、両坂道に面している多聞櫓の角を二重櫓とすることで、左右対称となっており、この構造が天秤櫓の由来となっています。
    建物土台の石垣は右側が築城当時の打ち込みハギ、左側が江戸後期の改修による落とし積みといった具合で、石積み技術の変遷を伝えているのも見どころです。
  • 廊下橋
    天秤櫓に架かる木造の廊下橋。
    戦時の際は破却して敵兵の侵入を防ぐ狙いがあったと伝わっています。
  • 石垣
    奥行の深い自然石を積み上げた「牛蒡詰み」(野面積みの一種)という石垣の技法。
  • 玄宮園・楽々園
    延宝5年(1677年)、4代藩主井伊直興により造営が始まり、同7年に完成したと伝えられ、昭和26年には国の名勝に指定。玄宮園は江戸時代には「槻之御庭」、隣接する楽々園は「槻御殿」と呼ばれ、桜田門外の変で有名な第15代藩主・直弼の生誕地としても知られています。
  • 西の丸三重櫓及び続櫓(国重要文化財)
    西の丸の西に建つ3層3重の櫓で、さらに西に張り出した出曲輪との間に深い堀切を設けられています。西の丸は西方の搦め手(裏手)からの敵に備えた守りの要で、三重櫓はこの搦め手を見下ろす位置に設けられました。
天秤櫓
廊下橋
玄宮園
楽々園
西の丸三重櫓及び続櫓
ひこにゃんにも会えるよ!

交通

JR東海道本線「彦根」駅から徒歩約10分

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ランチでいただいたローストビーフ丼。近江牛のとろける美味さは絶品です。

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※2020/11/23 更新

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