日本100名城 No.86:大野城

基本データ
- 築城年代:665年(天智天皇4年)
- 別名:大野城(おおののき) [Ōno-no-ki]
- 構造:百済式山城
- 築城者:大和朝廷 [Yamato Imperial Court]、憶礼福留 [Okurai-Fukuru]、四比福夫 [Shihi-Fukubu]
- 主な城主:不明
- 所在地:福岡県糟屋郡宇美町四王寺、太宰府市、大野城市
- 管理団体公式ページ(宇美町):大野城跡
概要
時は7世紀・・・。
倭(日本)・百済遺民勢力連合軍と唐・新羅連合軍の間で行われた「白村江(はくすきのえ)の戦い」は、日本が朝鮮半島南部の権益を完全に失った歴史的な敗戦として現在も伝わっています。
倭国水軍は亡命を望む百済遺民も船に載せ、ほうほうの体で帰国しましたが、倭国はこの戦いに乗じた超大国「唐」の九州侵攻という絶体絶命の危機に陥ります。
大和朝廷は大宰府政庁(九州の政治拠点)の後詰め、ひいては倭(日本)の防衛線として、665年(天智天皇4年)、筑紫国に大野城と基肄城という巨大な城塞を築きあげました(前年には水城が築城されています)。
・【お城】基肄城 -Kii castle-
・【お城】水城 -Mizuki-
「日本書紀」によると、このとき城の設計を指導した人物として、憶礼福留(おくらい・ふくる)、四比福夫(しひ・ふくぶ)といった聞き慣れない漢字四文字の名前が登場するのですが、彼らは旧百済の遺臣で兵法に明るい、いわゆる亡命百済人の軍事スペシャリストなわけですな。
かくして、倭(日本)の国防意識・百済遺臣の技術・民の労働力を結集した一大国家プロジェクトともいうべき大野城でしたが、大和朝廷が白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅といった大陸側の交戦には加担せず、防人を配備しつつも友好的な外交に終始したため、その後半島から連合軍が攻めてくることはありませんでした。




交通
- 西鉄太宰府線「太宰府」駅から徒歩約40分
- JR鹿児島線「南福岡」駅・西鉄大牟田線「雑餉隈」駅から西鉄バス「上宇美行き」で約20分 → 「県民の森入り口」下車、徒歩50分
- その他、JR「大野城」駅からのバスルート有り
周辺のおいしかったリスト
- 誇名庵(西鉄太宰府駅前のお蕎麦屋さん。もちろん麺は十割そばがおすすめ)
- 茶房うみはち(宇美八幡宮境内のカフェ。開放感のある落ち着いた店内で和スイーツを)
- 喫茶 風見鶏(太宰府天満宮の参道入口にある「はいからな」喫茶店。一杯のコーヒーで大正時代にタイムスリップします。ケーキやサンドウィッチもあるよ^^)
お薦め書籍
※2020/11/23 更新