日本100名城 No.94:大分府内城

基本データ
- 築城年代:1597年(慶長2年)
- 別名:荷揚城 [Niage-jō]、白雉城 [Hakuchi-jō]、大分城 [Ōita-jō]
- 構造:平城、海城
- 築城者:福原直高 [Fukuhara-Naotaka]、竹中重利 [Takenaka-Shigetoshi]
- 主な城主:福原氏 → 早川氏 → 竹中氏 → 日根野氏 → 松平(大給)氏
- 所在地:大分県大分市荷揚町4-1
- 管理団体公式ページ(大分市):府内城
概要
文禄の役において敵前逃亡の咎をかけられた大友義統(宗麟の長子)は、豊臣秀吉の勘気を被り豊後一国を没収されました。
以後、豊後国は豊臣~徳川の時代を通して国主のいない小藩分立の律令国となるわけですが、一時の豊臣直轄領(代官は早川長政)を経て間もなく、豊後のうち大分郡、速見郡、玖珠郡の3郡12万石を与えられたのが秀吉の直臣・福原直高でした。
福原氏は大友館に代わる新城として、府内の別府湾に面した荷落(におろし)という地を選定、縁起を担いで「荷揚(にあげ)」と改称し、1599年(慶長4年)に城は完成しましたが、在城僅か1ヶ月で臼杵に転封となりました。




福原氏改易後、旧領主の早川氏が一時入城しますが、1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いの戦後処理により西軍に与した早川氏が改易、代わって竹中重利が入城します。
竹中氏による治世期間において、四重の天守をはじめ櫓、堀、山里曲輪が配置し、現在残る大分府内城を完成させています。
しかし、竹中氏の治世も次代・重義のときに改易となり、その後、日根野吉明が2万石で入城するも世子なく断絶、1658年(万治元年)、松平忠昭が入城し、以後松平氏の居城として明治維新に至りました。
なお、竹中氏のときに築かれた4重天守は1743年(寛保3年)に火災で失い、以後再建されることはありませんでした。
交通
JR日豊線「大分」駅から徒歩約15分
城下町のおいしかったリスト
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※2020/11/23 更新