続日本100名城 No.171:備中高松城


現在公園となっている蓮池一帯は羽柴秀吉の水攻め時において水没地帯となった。
※2019年9月14日撮影
基本データ
- 築城年代:16世紀後半(推定)
- 別名:
- 構造:平城・沼城
- 築城者:石川氏
- 主な城主:清水氏
- 所在地:岡山県岡山市北区高松558-2
- 管理団体公式ページ:備中高松城址(おかやま観光ネット)
概要
備中高松城の築城時期ははっきりしておらず、戦国時代にこの地を治めていた三村氏の重臣・石川氏によって築かれたとされています。
三村氏が毛利氏に滅ぼされた後、清水宗治が入城。以後、中国侵攻を進める織田氏に対する最前線基地となります。
天正10年(1582年)4月、織田信長の統一事業の一環として中国攻めの先鋒を務める羽柴秀吉が備中高松城を3万の大軍で包囲し、宗治は秀吉からの降伏勧告も蹴り、徹底抗戦の構えを見せます。
高松城は広大な低湿地帯に築かれた「沼城」で、騎馬や鉄砲をもってしても主郭部分への進軍が困難な天然の要塞となっており、攻城戦は難攻しましたが、秀吉方の軍師・黒田孝高の献策による、この地形・地質を逆手にとった水攻めにより、周辺は湖のように水位が上昇し、城域も浸水します。
高松城が落城寸前まで追い込まれた頃、毛利軍本体5万(6万とも)が救援に駆け付け、両軍膠着状態にある中、本能寺の変の報せを受けた秀吉が信長の死を伏せ、毛利との休戦協定を進めました。
講和の条件として、宗治の切腹と引き換えに籠城兵の助命を約束した秀吉は、その後天下人への道を歩み始めることになります。






訪問記
城址公園は蓮池となっていて、もう少し時期が早ければ一面に花が咲いた状態を見ることができたかも。。主郭部分はあまり痕跡を残していないものの、地元民の憩いの場になっていた。
二の丸跡から本丸跡へ向かうと、本丸側から小学生ぐらいの女の子3人が自転車で駆け下りて来て、すれ違いざまに元気に挨拶をしてくれた。
一見、郊外の平穏な田園風景とは裏腹に、城跡とその周辺には高松城の攻防戦や清水宗治に関する悲哀のモニュメントに溢れている。
高松城の水攻め以降、中国地方では大きな戦が起こっていないことを鑑みると、清水宗治の忠義と死がいかにその後の歴史を大きく動かしたかを物語っている。




交通
JR吉備線(桃太郎線)「備中高松」駅から徒歩約10分

城下町のおいしそうなリスト
- 手打ちうどん おおもり (備中高松駅から徒歩3分ほどの場所にある老舗のうどん屋さん)
- 御茶調進処ふくちゃ (タピオカティー専門店)

お薦め書籍
※2020/11/28 更新