日本100名城 No.95:岡城

基本データ
- 築城年代:1185年?(文治元年?)、1331年(元徳3年)、1596年(慶長元年)
- 別名:臥牛城 [Gagyu-jō]、豊後竹田城 [Bungo taketa-jō]
- 構造:山城 → 平山城
- 築城者:緒方惟栄 [Ogata Koreyoshi]、志賀貞朝 [Shiga Sadatomo]、中川秀成 [Nakagawa Hideshige]
- 主な城主:緒方氏、志賀氏、中川氏
- 所在地:大分県竹田市大字竹田2761
- 管理団体公式サイト:https://okajou.jp/
概要
岡城の起源は鎌倉時代初期にまで遡ります。
源頼朝から追われる身となった源義経を匿うため、緒方惟栄が標高325メートルの天神山に城を築いたのが始まりとされています。
その後、南北朝時代から安土桃山時代にかけて大友氏の家臣、志賀氏の居城となりました。
中でも志賀親次の時、天正14年(1586年)から天正15年(1587年)にかけて行われた豊薩合戦において、僅か1千足らずの籠城兵で3万5千の島津軍を撃退し、豊臣秀吉に「天正の楠木正成」と賞賛されたことから、岡城の堅固さと親次(ちなみにこの時弱冠20歳!!)の武勇を今日まで伝える重要なエピソードとなっています。
ところが、文禄2年(1593年)主家大友氏の所領没収に伴い、重臣である親次も岡城を退去することになります。




翌年、播磨国・三木城から中川秀成が入城、高石垣を多用した近世城郭として大改修されました。
今日残る岡城は中川氏による遺構で、本丸を中心に二の丸、三の丸、西の丸を配置、本丸の累上には天守代用の御三階櫓が建っていたと伝わっています。
その後も江戸時代を通して、中川氏累代の居城として幕末に至りました。
明治期に入ると、各地の他城の例に漏れず石垣上の建物は解体され、現在は雄大な石垣を残すのみとなっています。
なお、作曲家の滝廉太郎は、岡城の荒廃ぶりをモチーフに「荒城の月」を作曲したことで知られています。
見どころ
やはり、何と言っても高石垣。
僕が最後に訪問したのは2000年代の初めだったので、かれこれ20年前になるが、小学生の頃家族と訪れた時と変わらぬ迫力だった。
特に二の丸、三の丸あたりから防護柵や塀もない状態で急峻な高石垣を見下ろすと足がすくむ。
高所恐怖症の人にはしんどいかもですが、塁上から眺める城下は絶景なので是非一度訪れてみてください。
交通
JR豊肥本線「豊後竹田」駅からタクシーで約5分 → 観覧料徴収所(総役所跡) → 徴収所から徒歩で約30分 → 本丸跡
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※2020/11/23 更新