続日本100名城 No.193:臼杵城



※2019年6月22日撮影
基本データ
- 築城年代:1556年(弘治2年)
- 別名:丹生島城 [Nyūjima-jō]、亀城 [Ki-jō]、金亀城 [Konki-jō]、巨亀城 [Kyokin-jō]
- 構造:平山城、海城
- 築城者:大友義鎮(宗麟)[Ōtomo-Yoshishige/Ōtomo-Sōrin]
- 主な城主:大友氏 → 福原氏 → 太田氏 → 稲葉氏
- 所在地:大分県臼杵市臼杵丹生島
- 管理団体公式サイト:無
概要
1556年(弘治2年)、大友義鎮(宗麟)は府内に代わる新城として臼杵川河口に浮かぶ丹生島一帯を城塞化し、丹生島城と名付けて拠点を移しました。
その後、九州南部から島津氏の勢力が及ぶようになり、1586年(天正14年)、丹生島城の戦いにおいて宗麟は籠城戦を強いられるも、海城である臼杵城の地の利を生かした防御力と、宗麟がポルトガルから入手した、当時としては画期的だったフランキ砲(国崩し)の威力が功を奏し、窮地を脱しました。
大友氏の改易後、豊後は豊臣譜代の小大名が分立する国となり、一時府内から福原氏、次いで太田氏と入れ替わりました。
1600年の関ヶ原の戦い以後は、美濃国郡上八幡城4万石から稲葉貞通が5万6千石に加増移封され、以後江戸時代を通して稲葉氏の居城として明治維新を迎えました。
明治期に建物の多くは撤去され、城域となる丹生島周辺は埋め立てられ、近代化の波とともに市街地化しているため、海城としての面影はとどめていませんが、石垣や一部の櫓・鐘楼が残っており、平成期には大門櫓や土塀が復元されています。

見どころ:重箱造りの謎
最盛期には、塁上には3層4階の天守の他、31基の櫓が建ち並んだ。
2層の櫓群はいずれも1階と2階の床面積に逓減率を持たない重箱櫓と呼ばれる特異な外観で、現存する畳櫓や卯寅口門脇櫓でもその建築技法が確認できる。
この建築技法の目的は定かではないが、同じような櫓が31基も並んでいたことを想像すると、城外から見て視覚的に個々の隅櫓を大きく見せ、攻める側に堅固な印象を与える(かも)。
もう一つ、重箱櫓の利点として、島全体を城塞化し、3方を海に囲まれた海城だったことを考えると、上層の小さい通常の櫓では勾配の少ない断崖の真下に近づいた敵兵が死角になってしまうのではないか。
つまり、上層階でも下方射界を可能な限り確保したかったという狙いがあったのかも知れない。
さらに推察すると、臼杵城は海に面しているので、豊後水道の潮風による塩害対策も必要だったと思う。
重箱櫓の特徴として、初重と2重目の間は庇(ひさし)程度になるため、実質1層と言って良い。
可能な限り瓦を多く葺かないことで、腐食によるメンテナンスコストを抑える狙いもあったのかも知れない。


交通
JR日豊本線「臼杵」駅から徒歩約10分

城下町のおいしかったリスト
- お食事処 居酒屋 はっちょう (安くてボリュームたっぷりの居酒屋さん。とり天、りゅうきゅうに臼杵の地酒とか最強コンボだわ)



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※2020/11/28 更新