日本100名城 No.4:弘前城
弘前城天守 弘前城二の丸辰巳櫓
基本データ
- 築城年代:1611年(慶長16年)
- 別名:鷹岡城、高岡城
- 構造:平山城
- 築城者:津軽信枚
- 主な城主:津軽氏
- 所在地:〒036-8356 青森県弘前市下白銀町1
- 管理団体公式サイト:弘前公園総合情報
概要
弘前城(ひろさきじょう)は、陸奥国鼻和郡(のち統合と外浜(青森)、西浜(十三湊)を編入で津軽郡)弘前(現・青森県弘前市下白銀町)にあった日本の城である。別名・鷹岡城、高岡城。江戸時代に建造された天守や櫓などが現存し国の重要文化財に指定されている。また城跡は国の史跡に指定されている。江戸時代には津軽氏が居城し弘前藩の藩庁が置かれた。
参考:弘前城 – Wikipedia
1590年(天正18年)、南部氏に臣従していた大浦為信は、小田原征伐の際に豊臣秀吉より南部氏に先駆けて津軽三郡4万5千石の支配権を得て、姓も大浦から津軽へと改めました。
為信は堀越城(弘前市堀越)を築き、それまでの本拠地であった大浦城から移転しましたが、防御面の課題から鷹岡(現在の弘前城)に築城を計画します。
1611年(慶長16年)、2代信牧のときに鷹岡城は完成、5層6階の天守をもつ大規模な近世城郭を形成しました。

しかし、1627年(寛永4年)、鷹岡城の天守が落雷で炎上し、内部の火薬に引火して大爆発を起こしました。
この事件は、信枚の伯母(為信の正室・阿保良(おうら)の姉)が為信のために失意のうちに病死した件の祟りであるといわれ、時折伯母の怨霊が城内に現れていたとも言い伝えられています。
そのため、これまで「鷹岡(高岡)」と呼ばれていた藩都を、翌寛永5年(1628年)8月に天海が天台密教での破邪の法から名付けた「弘前」と改め、以降藩名も「弘前藩」と呼ばれるようになりました。
以後、200年近く天守のない時代が続いた弘前城ですが、1810年(文化7年)、9代藩主津軽寧親が三層櫓を新築することを幕府に願い出て、本丸に3層3階の御三階櫓(天守)が建てられました。
この御三階櫓は、本丸の辰巳櫓を改築して天守代用としたもので、これが現存12城天守の一つとなる弘前城天守です。
本丸を二の丸以下の曲輪が囲むように縄張された輪郭式の城で、本丸のみ石垣造りでその他の曲輪は土塁で造られ、本丸には馬出が残っています。

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交通
JR奥羽本線「弘前」駅から弘南バス「100円循環バス」で約15分「市役所前」下車、徒歩すぐ

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