【お城】水戸城 -Mito castle-

日本100名城 No.14:水戸城

Wikipedia(水戸城)からの写真

基本データ

概要

水戸城の起源は古く、鎌倉時代に御家人の馬場資幹が居館を築いたのが始まりとされており、佐竹氏が入城するまでは馬場城と呼ばれていたようです。

その後、室町時代から戦国時代末期にかけて江戸氏が支配していましたが、1590年(天正18年) 、豊臣秀吉の小田原征伐の際に江戸重通は北条氏側に加担し、逆に佐竹義重・義宣父子は秀吉軍に参陣しました。

これにより佐竹氏は秀吉より常陸一国54万石の支配権を安堵され、義重・義宣は江戸氏の籠城する馬場城を攻め、1594年(文禄3年)に重通を敗走させました。

佐竹義宣は常陸太田城に代わる新たな本拠として馬場城を大改修し、城名を水戸城に改めました。

しかし、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいて懇意にしていた石田三成の西軍加担の意向を示す善宣と、覇権の趨勢を見極めて徳川家康の東軍加担の意向を示す父・義重との意見が対立し家中の意見がまとまりませんでした。

旗色を鮮明にできないまま不戦に終わった佐竹氏は、戦後家康に謝罪しましたが、曖昧な態度に対するペナルティとして出羽国秋田郡20万石(実高40万石とも)に減転封となりました。

この処分は関東圏内に無傷の大兵力を擁した佐竹氏を警戒したためともいわれています。

佐竹氏転封後、家康は奥州の抑えとして、五男の武田信吉を入城させましたが、後継ぎ無く没したため、徳川頼房(家康の十一男)を入城させ、御三家にふさわしい城に改築しました。

以後、水戸城は水戸徳川家の城として幕末に至り、光圀(時代劇「水戸黄門」で知られる2代藩主、頼房の子)や斉昭(9代藩主、15代将軍・慶喜の父)といった名君を輩出します。

台地上の最高所に本丸を築き、二の丸、三の丸を連郭式に配した縄張で、石垣を用いず、壮大な土塁と堀のみで守りを固めていました。

これは関東一円の城に共通している特徴で、関東には江戸を取り囲むように徳川一門・譜代大名を配置しているため、政治力学の観点から石垣を用いる必要性が低く、将軍の江戸城と親藩の小田原城を除き、天守も持たない土塁造りの城が一般的であったようです。

御三家とはいえ、水戸城もその例に漏れず、天守の代用として二の丸に御三階櫓(ごさんがいやぐら)を建てていました。

この御三階櫓は、破風を持たない質素な造りで外観は3層、内部が5階で初重下部には海鼠塀(なまこべい)を施していました。

昭和20年の空襲で失われましたが、遠目に見るとあたかも石垣の上に三階櫓が建っているかのような外観を呈していたことが古写真からうかがい知ることができます。


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交通

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