日本100名城 No.36:丸岡城

基本データ
- 築城年代:1576年(天正4年)
- 別名:霞ヶ城
- 構造:平山城
- 築城者:柴田勝豊
- 主な城主:柴田氏、安井氏、青山氏、今村氏、本多氏、有馬氏
- 所在地:〒910-0231 福井県坂井市丸岡町霞1-59
- 管理団体公式サイト:坂井市 / 丸岡城 公式サイト
概要
丸岡城は柴田勝家の甥・勝豊が1576年(天正4年)に築き、この時期に天守もあげられたとされています。
1583年(天正11年) に柴田勝家が豊臣秀吉によって賤ヶ岳の戦いで敗北、北ノ庄城で滅ぼされると、この地は丹羽長秀の所領となり、城代として家臣の青山氏が入城しました。
1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦後、徳川家康の次男・結城秀康が入封し、丸岡城には秀康家臣の今村盛次が2万6千石を与えられ入城しました。
1612年(慶長17年) 、越前騒動で失脚した今村盛次に代わり本多成重が4万3千石で新たな城主となり、1624年(寛永元年)には主家の越前松平氏(福井藩)より独立。ここに丸岡藩が立藩しました。
ところが4代藩主・本多重益が酒色に溺れ、藩政を蔑ろにしていたことからお家騒動が勃発し、1695年(元禄8年)に本多氏は改易となりました。
本多氏に代わり、有馬清純が越後国糸魚川藩より5万石で入城すると、以後有馬氏丸岡藩6代の居城となり明治維新を迎えました。

見どころ
2層3階の望楼型天守は、現存する12城の天守では最古とされていますが、建築様式や石積の技法から柴田氏より後の慶長年間(本多氏の時代)とする説も考えられており、この辺りが犬山城天守とどちらが古いのかについての議論に未だ決着がついていません。
小高い丘に築かれた城は本丸と二の丸を五角形の内堀が巡り、 さらにその外周を三の丸と外堀が囲んでいましたが、現在残るのは本丸と周辺のわずかな堀のみとなっています。
丸岡城の見どころの一つとして、一般的な焼き物瓦ではなく石製の瓦や鯱が使用されている点があげられます。
これは北陸地方の重い豪雪に耐えられるよう、笏谷石(しゃくだにいし)が取り入れられているため、天守の瓦だけで総重量約120トンに及ぶといわれ、1階だけでも26本の柱で支えています。
人柱伝説 ~お静の涙雨~
また、丸岡城は築城にあたって難工事完成を祈って生贄 (いけにえ) とするために、人を土中に埋める「人柱(ひとばしら)」の民話が伝わっていることでも知られています。
以下のあらすじを引用しておきます。
丸岡城の人柱
むかしむかし、丸岡城(まるおかじょう)が築城(ちくじょう→城を建てること)された時のお話です。
どうしたことか、丸岡城は何度建てかけても、城がくずれてしまって建ちませんでした。
お城を建てる責任者は、最後の方法として人柱(ひとばしら)を立てることを考えました。
そして、人柱の希望者をつのりました。
でも、自分から命を犠牲(ぎせい)にして、城の下に入る者などいるはずがありません。
ですから希望者が見つかるまで、築城は中断することになりました。
さてその頃、丸岡の城下町(じょうかまち)に、片目の女が息子と住んでいました。
女は片目のうえ体も悪いので、とてもまずしい生活をしていました。
その片目の女は、人柱のことを聞いて、(どうせ自分は長生きできない。このまま自分が死んでしまったら、かわいい自分の息子はどうなってしまうのだろう? もし息子が幸せになるならば)と、自分が人柱になってもよいと、奉行(ぶぎょう)に願いでました。
「私は人柱になります。そのかわりどうか、息子を武士(ぶし)に取り立ててください」
「うむ、約束しよう」
片目の女は奉行との約束を信じて、人柱になりました。
城は無事に完成しましたが、どういうわけか、息子は武士に取り立ててもらえませんでした。
それからは夏になるたびに、お城の堀(ほり)の水面いっぱいにもがしげり、毎年一回は、もをからなければなりません。
そしてその日はきまって、小雨がしとしとと降りだすのです。
「あら、いとし、片目の女の涙雨」と、町の人々は母心をいとおしみました。
また、お城には片目の蛇が住んでいたのですが、それは片目の女の怨霊(おんりょう)だといわれています。
参考:福娘童話集 きょうの日本民話
現在、天守の向かいにはお静さんの慰霊碑が建立されています。

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交通
JR北陸本線「福井」駅から京福バス「本丸岡行き」で約40分「丸岡城」下車すぐ

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