【お城】二条城 -Nijō castle-

日本100名城 No.53:二条城

あけびさんによる写真ACからの写真

基本データ

  • 築城年代:1603年(慶長8年)、1626年(寛永3年)
  • 別名:旧二条離宮、恩賜元離宮二条城
  • 構造:平城
  • 築城者:徳川家康、徳川家光
  • 主な城主:徳川氏
  • 所在地:〒604-8301 京都府京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
  • 管理団体公式サイト:二条城 世界遺産・元離宮二条城

概要

二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区二条通堀川西入二条城町(かつての山城国葛野郡)にある、江戸時代に造営された日本の城。正式名称は元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏によるものがあるが、現在見られるものは徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。

徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。また、後の近代においては大正天皇即位の儀式である即位礼の饗宴場として使用された場所となった。

参考:二条城 – Wikipedia

Wikipediaの引用にあるように、二条城ついてはまず現在残る二条城とは異なる場所にさまざまな「二条城」が存在していた先史について簡単に触れておきましょう。

足利義輝の「二条御所武衛陣の御構え」

室町幕府13代将軍・足利義輝が管領家・斯波氏の邸宅跡に築いた将軍の御所。

俗に「初代二条城」などと呼ばれることがありますが、史跡名称として使用されている「旧二条城」や「二条御所」といった呼称が適切でしょう。

場所は現在の京都府京都市上京区五町目町にあたり、周囲に堀をめぐらした中世城館であったと伝えらえていますが、1565年6月17日(永禄8年5月19日)、完成を待たずして三好三人衆の襲撃を受け義輝は落命、変後、跡地には真如堂が移されています。

足利義昭の「二条城」

織田信長の武力を後ろ盾として得た義輝の弟・義昭は、1568年(永禄11年)に上洛し、第15代将軍となりました。

将軍就任後、義昭は六条本圀寺を居館としていましたが、翌年三好三人衆による襲撃(本圀寺の変)を受けました。

この時、京にいた信長家臣団および細川藤孝や明智光秀をはじめとした義昭の側近諸将による奮戦によって撃退に成功するも、この報を受けた信長は、将軍警護と京の治安維持の観点からより防御力の高い城の必要性を感じ、義輝の武衛陣跡を取り込む形で約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅を義昭のために築きました。

しかし、義昭と信長の関係はその後徐々に悪化し、1573年(天正元年)に義昭が畿内から追放されて事実上室町幕府が滅亡すると足利二条城は廃城となりました。

二条城に残った天主や門は1576年(天正4年)に近江国安土へと運ばれ、築城中の安土城に転用されたといわれています。



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織田信長・誠仁親王の「二条新御所」

現在は京都府京都市中京区二条殿町に案内碑が残るのみですが、もともとは公家の館で二条摂関家が住んでいため、「二条邸」と呼ばれていました。

1576年(天正4年)に信長が上洛した際、この二条邸の庭の眺望を気に入り、これを譲り受けて京都所司代の村井貞勝に改修させました。

翌年に改修工事は完了し、以後2年に渡り京における信長の宿所として使用されていたようです。

1579年(天正7年)に館は皇太子誠仁親王に献上されていましたが、1982年(天正10年)に本能寺の変が勃発すると、隣接する妙覚寺を宿舎としていた織田信忠(信長の嫡男)が籠城し、明智光秀勢と奮戦するも衆寡敵せず、信忠はじめ村井貞勝ら60余名が討死し、妙覚寺ともども灰燼に帰しました。

羽柴(豊臣)秀吉の「二条第(妙顕寺城)」

羽柴秀吉(豊臣秀吉)もまた、二条に居館を構えていた時期があったようです。

一つは前述の二条御新造の隣接地に構えていた屋敷ですが、これは信長存命中のことで、あくまでも信長家臣団の屋敷の一つといったところでしょう。

城として認識されているのは1583年(天正11年)、京における拠点として構えた「二条第」で、妙顕寺を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれています。

二条第はその後、秀吉から甥の秀次へと受け継がれる関白の邸宅「聚楽第」が完成するまで京の政庁として機能し、周囲に堀を巡らし天守も存在していたといわれています。

徳川氏の「二条城」

今日残る二条城は、徳川幕府の開府と終焉の舞台として知られ、初代家康が征夷大将軍拝賀の祝宴を催し、最後の15代将軍慶喜が大政奉還を発表したのがこの城です。

1601年(慶長6年)関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、2年後に落成しました。

1603年(慶長8年)3月27日、家康は二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行いました。

この儀式は2年後の1605年(慶長10年)に家康の三男で2代将軍の秀忠、1623年(元和9年)に孫の3代将軍の家光まで踏襲されましたが、曾孫の4代将軍家綱以降は行われなくなったようです。

現在の姿になったのは3代家光のときで、家光は後水尾(ごみずのお)天皇の行幸を仰ぐため、御殿や白亜の5層天守を造築しました(伏見城の天守を移築したともいわれています)。

この「天皇が昇った唯一の天守」は1750年(寛延3年)に落雷で焼失し、以後再建されないまま大政奉還を迎えており、詳しい外観は分かっていません。

豪華絢爛なばかりでなく、豊臣秀頼の成長ぶりに危機感を抱いた家康が豊臣氏討滅を決意したといわれる二条城会見や、徳川慶喜による大政奉還の諮問といった歴史的な出来事を見届けた国宝・二の丸御殿に目を奪われがちな二条城ですが、やはりかつての首都であった京洛に在った城であるだけに、歴史的見どころは枚挙にいとまがありません。

交通

JR東海道新幹線・東海道本線「京都」駅から市バス「9・50・101号系統」で約20分「二条城前」下車すぐ。地下鉄東西線「二条城前」駅から徒歩5分

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