続日本100名城 No.109:米沢城




基本データ
- 築城年代:1238年(暦仁元年)?
- 別名:舞鶴城、松ヶ岬城
- 構造:平城
- 築城者:長井時広?
- 主な城主:伊達氏、蒲生氏、上杉氏
- 所在地:〒992-0052 山形県米沢市丸の内1丁目4(上杉神社)
- 管理団体公式サイト:米沢観光ナビ
概要
城は米沢市街地のほぼ中心に位置する。戦国時代後期には伊達氏の本拠地が置かれ、伊達政宗の出生した城でもある。江戸時代には米沢藩の藩庁が置かれて上杉景勝・上杉鷹山などの歴代藩主が居住した。平城で、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式縄張りの城である。10基の櫓と17棟の門が開かれた。上杉氏による築城(大改修)当時は30万石の大名の居城であって、石垣は少なく、土塁を多用し、天守は構えられず、本丸に東北隅と西北隅に2基の三階櫓を建てて天守の代用(御三階)としていた。
他に二層櫓が複数あり。現在、本丸跡は上杉神社の境内となっており、また、二の丸跡には米沢市上杉記念館(旧・上杉伯爵邸)がある。
また米沢図書館には享保10年(1725年)と文化8年(1811年)の米沢城城下絵図が所蔵されている。
参考:米沢城 – Wikipedia
米沢城は、鎌倉時代に出羽国置賜郡長井荘を治めていた御家人・長井時広が居館を築いたことが始まりと伝えられていますが、実証する遺構や史料が確認されていないようです。
その後、室町時代前期から伊達氏の支配下に入り、戦国時代に14代当主の伊達稙宗(伊達政宗の祖父)の頃に本城を米沢城に移すと、以後安土桃山時代にかけて晴宗、政宗へと引き継がれました。
しかし、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による奥州仕置において、伊達政宗に代わって会津黒川(会津若松)42万石を与えられた蒲生氏郷の所領となりました。
1598年(慶長3年)には蒲生氏に代わり上杉景勝が120万石で若松城に入城すると、米沢城には重臣の直江兼続が6万石(寄騎を含めると30万石)で入城しました。
関ヶ原の戦い後、主君の景勝が30万石に大減封の上、米沢城へと移ると、兼続は大規模な改修工事を行い、現在残る輪郭式の近世城郭となりました。
以後、上杉氏は苦しい財政ながらも明治維新まで存続しました。

構造
米沢城は米沢盆地南の扇状地に築かれ、本丸を二の丸、三の丸の曲輪と水堀が二重に囲む輪郭式の縄張りです。
天守はありませんでしたが、本丸の北東隅と北西隅には城の象徴となる2基の「御三階櫓」が建てられ、特に北東隅の櫓は内々に「天守楼」と呼ばれ、実質的な天守とされていたようです。
この三階櫓は、天守代用の割にはかなりお洒落な造りになってて、初重と二重目に火灯窓のある切妻造りの出窓がバランス良く配置されていました。
明治初年に英国人が撮影した古写真からその様式と威容を感じ取ることができます。

近世城郭に見られる一般的な天守や櫓のような鯱や瓦を用いず、杮(こけら)葺きの屋根に火灯窓を設けた意匠は、どことなく慈照寺(銀閣)や聚楽第、西本願寺飛雲閣を彷彿とさせる東山文化に傾倒した外観で、かつて関東管領であった上杉家の気品を感じさせます。
上杉氏は関ヶ原の戦い後に大減封されるも、家臣をほとんど解雇しなかったため、米沢城が質素な造りになったという見解も一理あると思うけど、春日山城山麓の居館であった「御館(おたて)」や、若松城に代わる会津の新城として計画されていた「神指(こうざし)城」も方形のシンプルな縄張りだったので、上杉氏代々の「家風」でもあるんだと思います。
なお、現在は土塁や水堀が残っており、本丸跡は上杉謙信を祀る上杉神社となっており、神社には米沢藩の財政を立て直した上杉氏中興の祖・鷹山も合祀されています。




交通
JR奥羽本線「米沢」駅から市街地循環バス右回りで約10分「上杉神社前」下車徒歩約3分

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書籍
※2020/11/28 更新