続日本100名城 No.152:津城




基本データ
- 築城年代:1570年~92年(元亀~天正年間)
- 別名:安濃津城
- 構造:平城
- 築城者:織田信包
- 主な城主:藤堂氏
- 所在地:〒514-0033 三重県津市丸之内33−5
- 管理団体公式サイト:津市(県指定史跡 津城跡)
概要
津城は三重県津市丸之内にあり、津市街の中心部に位置する。北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていた。江戸時代初期に築城の名手・藤堂高虎により近代城郭として大改修され津藩の藩庁となった。江戸期の津城は中央に内堀で囲まれた本丸と、それに付属して東丸・西丸があり、本丸・東・西丸を取り囲んで二の丸が配された輪郭式の平城であった。
現在の城跡は「お城公園、お城西公園」として整備されている。また、その他の城址には津市役所や裁判所、津警察署などが建ち並んでいる。
参考:津城 – Wikipedia
津城は鎌倉時代からこの地を支配していた長野氏が戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)に築いた安濃津城を起源としています。
1570年(元亀元年)、織田信長による伊勢侵攻後、織田信包(信長の弟)が入城し、城を拡充しましたが、この頃に5層天守と小天守をもつ近世城郭の姿になったといわれています。
やがて豊臣政権の時代になると信包は丹波柏原(かいばら)移封となり、代わって富田知信(一白)が入城しました。
知信の跡を継いだ子の信高は、関ヶ原の戦いにおいて東軍に与し、援軍を含めた1700の手勢で安濃津城に籠城します。
毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂、長宗我部盛親らで構成された総勢3万の西軍に城を包囲される壮絶な攻防戦を繰り広げましたが衆寡敵せず、和平交渉の末開城することになりました。
降伏した信高は剃髪して一時高野山に入山するも、戦後家康からこの籠城戦の功績を認められて旧領の安堵と2万石を加増されました。
信高は攻防戦で被災した津の城下町復興に尽力しましたが、領民の疲弊もあり思うようにはかどらないまま1608年(慶長13年)に伊予宇和島10万石に加増移封され、代わって伊予今治藩より伊勢・伊賀22万石(のち32万石)で入封した藤堂高虎に引き継がれることとなりました。

高虎は富田氏時代の津城を大改修し、旧領であった今治城の縄張りを応用したような輪郭式の大城郭を築き上げました。
以後、津藩藤堂氏累代の藩庁として明治維新に至りました。
構造
藤堂氏時代の津城には天守台までは築かれているようですが、天守は幕府に対する遠慮から建てられなかったようですが、本丸北側に2基の3層櫓が建ち並び、これが津城を象徴する建造物であったことでしょう。
津城は南北を川で挟まれた天然の幅広い外堀を形成し、多門櫓を巡らせた本丸東西に東之丸、西之丸を配し、それらを広大な内堀で取り囲んでいます。
輪郭式の縄張り、多門櫓、幅広い水堀、直線勾配の高石垣など、築城の名手と謳われた藤堂高虎のスペシャリティが詰まった集大成といえます。




交通
近鉄名古屋線「津新町」駅から徒歩約10分

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書籍
※2020/11/28 更新