続日本100名城 No.161:岸和田城



基本データ
- 築城年代:(不明)
- 別名:千亀利(ちぎり)城
- 構造:平城
- 築城者:(不明)
- 主な城主:小出氏、松平氏、岡部氏
- 所在地:〒596-0073 大阪府岸和田市岸城町9−1
- 管理団体公式サイト:岸和田市
概要
岸和田城(きしわだじょう)は、大阪府岸和田市岸城町にあった日本の城である。別名千亀利城(ちきりじょう)。江戸時代には岸和田藩の藩庁が置かれた。庭園は国の名勝、城跡は大阪府の史跡に指定されている。現在、昭和29(1954)年に再建された天守がある。
参考:岸和田城 – Wikipedia
岡部氏5万3千石の居城。城の起源ははっきりとはわかっていませんが、一説によると南北朝時代の1334年(建武元年)に楠木正成の一党である和田氏が「岸」というこの地に城館を築き、「岸の和田氏」と呼ばれるようになったことが岸和田という地名の始まりとされています。
室町時代に入ると信濃氏によって城館が現在地に移されたといわれており、戦国・安土桃山時代には細川氏、三好氏、松浦氏、中村氏、小出氏と入れ替わりました。
岸和田城が現在残っている近世城郭の姿となったのは、豊臣秀吉による紀州征伐後に入封した小出秀政の頃で、1597年(慶長2年)には本丸に5層の天守を完成させています。
小出氏3代、松平氏2代の治世を経て、1640年(寛永17年)摂津高槻城より岡部宣勝が6万石(のち分知により5万3千石)で入城し、明治維新に至りました。
なお、天守は1954年(昭和29年)に再建されている3層の復興模擬天守より10mほど高かったようですが、1827年(文政12年)に落雷で焼失し、以後廃藩まで再建されることはありませんでした。

岸和田城の役割
岸和田城は北の大坂城(幕府直轄)、南の和歌山城(紀州徳川氏55万石)に挟まれた位置にあります。
徳川家康養女を母に持ち、3代将軍家光の信頼が厚かった岡部宣勝の岸和田入城には、紀州和歌山城の徳川頼宣(徳川家康の十男)の監視という目的があったといわれています。
家光よりほんの少し年上の叔父にあたる頼宣。
戦国武将を思わせる豪気な性格だったようだが、その気位の高さから見え隠れする野心をかねてより幕府から警戒されていたようだ。
家光死後も幼少の家綱に代わって徳川の長老として鎮座していたようなので、幕閣にとってはめんどくさい老害だったことだろう^^;




交通
南海電鉄南海本線「岸和田」駅から徒歩約13分、または「蛸地蔵」駅から徒歩約8分

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書籍
※2020/11/28 更新