【お城】吉田城 -Yoshida castle-

続日本100名城 No.151:吉田城

吉田城北御門跡の石垣
吉田城本丸内部
吉田城復興鉄櫓
※内部は美術博物館となっています。
あけびさんによる写真ACからの写真

基本データ

  • 築城年代:1505年(永正2年)、または1496年(明応5年)説もあり
  • 別名:今橋城、豊橋城
  • 構造:平城
  • 築城者:牧野古白
  • 主な城主:酒井氏、池田氏、松平(大河内)氏
  • 所在地:〒440-0801 愛知県豊橋市今橋町3-1
  • 管理団体公式サイト:豊橋市

概要

吉田城の成り立ちは、1505年(永正2年)に駿河・遠江守護の今川氏親が三河国人の牧野古白に築かせた今橋城が前身とされています。

東海道の要衝ということもあり、その後周辺勢力による争奪戦が幾度となく行われましたが、氏親の子・義元の代になると今川氏の直轄地となり、この頃に吉田城と呼ばれるようになったそうです。

1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで義元が敗死して以降、今川氏の勢力が衰退する中、三河から自立した松平家康(のちの徳川家康)によって攻略され、今川氏は三河国の権益を失いました。

吉田城には徳川四天王の一人・酒井忠次を城代として配置し、以後しばらくは武田氏の南進に備えた最重要拠点として機能しました。

1590年(天正18年)、豊臣秀吉による統一事業の総仕上げというべき「小田原征伐」の論功行賞によって徳川家康は関東へ国替えとなり、吉田城には池田輝政が東三河4郡15万2千石で入城しました。

輝政は城および城下町の整備を11年に渡る歳月をかけて進めていましたが、関ヶ原の戦いの功により、播磨姫路城(52万石)へ加増移封となりました。

江戸時代の幕藩体制下においては、3万~8万石の譜代大名家が頻繁に入れ替わりましたが、前述のとおり東海道の要衝を任されるという意味で吉田城を与えられるというのは譜代大名として誉れ高いことでした。

城主の職務も江戸幕府の老中・大坂城代・京都所司代格といった、まさにエリートコースを歩む幕臣の出世城という位置付けであったことが伺えます。

構造

城の北側にある豊川と朝倉川を背に、本丸を中心に二の丸・三の丸と三方から取り囲む梯郭式の縄張りで、本丸南方以外の石垣は名古屋城の天下普請で余った石材を転用したものと言われています。

吉田城本丸の模型

本丸は総石垣の塁上に複数の多層櫓を配し、内部には本丸御殿がありましたが、天守はなく、本丸北西隅に立つ最大の三重櫓であった鉄櫓(くろがねやぐら)が天守の代用とされていたようです。

石垣が使われたのは本丸とその他数ヵ所程度で、他は土塁造りだった吉田城ですが、城域面積は東海地方屈指の規模を誇り、現在の豊橋公園一帯、及び隣に位置する市役所の敷地を合わせた面積21.6haが旧吉田城の城域となっており、これは同県の城である名古屋城を遥かに凌ぐ規模となります。


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交通

JR東海道本線「豊橋」駅から徒歩約20分、または路面電車で約10分

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豊橋市も愛知県ということで名物といえば手羽先や味噌煮込みうどん、きしめんに味噌カツも当然あるが、ここはあえて豊橋独自の「豊橋カレーうどん」に着目してみた。

因みに、豊橋カレーうどんを名乗るためのルールとしては、次の5箇条が定められているらしい。。

・うどん麺は自家製麺とする。
・器の底から、ご飯、とろろ、カレーうどんの順に盛る。
・日本一位の生産量を誇る「豊橋産のうずら卵」を具に使用する。
・福神漬または壺漬け・紅しょうがを添える。
・愛情を持って作る。

書籍

※2020/11/28 更新

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