続日本100名城 No.105:白石城



基本データ
- 築城年代:1591年(天正19年)
- 別名:益岡城、桝岡城
- 構造:平山城
- 築城者:蒲生郷成 [Gamou-Satonari]
- 主な城主:蒲生氏、甘糟氏、石川氏、片倉氏
- 所在地:〒989-0251 宮城県白石市益岡町1−16
- 管理団体公式サイト:白石城
概要
白石城の成り立ちについては史料が乏しく、詳しいことはわかっていませんが、伊達氏の支配下にあった戦国時代末期にはこの地(刈田郡)に城が存在していたのではないかと考えられています。
1591年(天正19年)、豊臣秀吉による奥羽仕置において伊達政宗が旧領米沢に減移封されると、蒲生氏郷が会津黒川42万石(のち92万石)で入封し、刈田郡も蒲生氏の所領となりました。
白石城は氏郷の直臣・蒲生郷成に与えられ、郷成は白石城を近世城郭に改修し、名も益岡城と改めました。
氏郷の死後、蒲生氏が宇都宮に移封され、越後春日山城から上杉景勝が120万石で会津に入ると、白石城には上杉家臣の甘糟景継が入城しました。




ところが1600年(慶長5年)、景勝は手狭になった本拠地・会津若松城に代わる新城として神指城の築城を進めると、徳川家康は「景勝に謀叛の疑いあり」として会津征伐を起こします。
いわゆる関ヶ原の戦いの幕開けです。
この会津征伐に乗じて失地回復を目論んでいた伊達政宗は、白石城に攻め掛かりました。
この時の白石城は、城代の甘粕景継が若松城に詰めていて守備も手薄だったこと、また伊達勢の旧領ということで地理に明るかった点もあり、城兵はわずか2日で降伏。再び政宗が掌握しました。
関ヶ原の戦いが終わると、城は政宗の側近・片倉景綱に与えられました。
その後、白石城は一国一城令発令後も例外的に許され、明治維新に至るまで仙台藩の支城として存続したようです。
建物は1874年(明治7年)に破却され、しばらく石垣を残すのみの状態でしたが、1995年(平成7年)に三階櫓、大手の一ノ門と二ノ門、土塀が復元されました。
この復元事業の機運に大きく拍車をかけたのが、なんとあのNHK大河ドラマの名作「独眼竜政宗」だったそうな。
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なお、この三階櫓はその規模や外観から実質的に「天守」といって良い様式ですが、幕府に対する遠慮と、また仙台藩の支城という位置付けもあり、「天守」という呼称を用いず「大櫓」と称していました。(本城である仙台城には初めから天守は建てられなかった)

交通
JR東北本線「白石」駅から徒歩約10分

周辺の気になるグルメスポット
白石名物といえば温麺(うーめん)。
白石城と片倉景綱にもまつわる発祥のエピソードも良い話です。
麺の温かさではなく心の温かさを意味してたんですねえ。
今から四百年ほど前、伊達藩白石城下に鈴木味右衛門という人がおりました。
参考:株式会社きちみ製麺
父が胃を病んで床に伏し何日も絶食しなければなりませんでした。
親思いの味右衛門は大変心配して、何か良い食餌療法はないかと八方手を尽くしたところ、たまたま旅の僧から油を一切使わない麺の製法を耳にし、これを作って温め父に勧めたところ、胃病は日ならずして快方に向かい、やがて全快したということです。
油を使わないで作る麺は胃にやさしく消化も良いので回復を早めたのでしょう。
白石城の片倉小十郎公は、前記の孝行話の「温かい思いやりの心」を称え、その麺を「温麺(うーめん)」と名付け、地場産品として奨励しました。
この油を使わない伝統的製法は、その後秋田県稲川町に伝わり稲庭うどんとなったとも言われております。
うーめん番所
手延白石温麺 味見処 光庵
元祖白石うーめん処なかじま

書籍
※2020/11/28 更新