【お城】鳥取城 -Tottori castle-

日本100名城 No.63:鳥取城

鳥取城水堀
仁風閣
中仕切門
fuku41さんによる写真ACからの写真

基本データ

  • 築城年代:1532年~55年(天文年間)、1607年(慶長7年頃)、1617年(元和3年頃)
  • 別名:久松山城
  • 構造:山城 → 平山城
  • 築城者:山名誠通、宮部継潤、池田長吉、池田光政
  • 主な城主:武田氏、山名氏、吉川氏、池田氏(池田輝政弟)、池田氏(宗家)、鳥取池田氏
  • 所在地:〒680-0005 鳥取県鳥取市東町
  • 管理団体公式サイト:鳥取市観光コンベンション協会

概要

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)に築かれた戦国時代から江戸時代の日本の城である。国の史跡に指定され、別名は久松山城という。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ。織田信長の中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉が兵糧攻めを用いて攻略した。開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残っている。

参考:鳥取城 – Wikipedia

鳥取城は、天文年間(1532年~55年)に因幡守護であった山名氏が標高263mの久松山の地形を利用して築いた山城です。

戦国時代の山名氏は、嘉吉の乱以降に山名持豊(宗全)が築き上げた頃のような威信はすでになく、山名氏のもとで着々と勢力を伸ばしていた因幡山名氏の客将・武田高信(因幡武田氏)は鳥取城を奪取、下剋上を果たします。

これを受けて山名豊国は1573年(天正元年)、かつて毛利氏に滅ぼされた尼子氏の遺臣・山中鹿之助ら尼子残党とともに鳥取城を一時奪還しました。

その後もしばらくの間、鳥取城は毛利氏、尼子残党軍、山名氏による奪い合いとなりましたが、山名氏が没落して行く中、毛利氏と畿内から中国侵攻を目論む織田氏が対峙しました。

織田方の羽柴秀吉は1581年(天正9年)、毛利方の吉川経家が守る鳥取城攻めを開始します。

秀吉は輸送米を高値で買い占め、城下の農民を城内に追いやるなどの巧みな物流遮断による「兵糧攻め」を行いました。

数ヶ月に及ぶ兵糧攻めによって城内の兵や領民の飢餓状態は凄惨を極め、籠城戦の限界を悟った経家は自害、鳥取城は開城しました。

城は秀吉の与力であった宮部継潤に与えられ、その後も豊臣政権下においても宮部氏の所領として存続しました。

宮部氏入封以降、近世城郭として拡張され、江戸時代に池田氏が入封する頃に現在のような曲輪が形成されたようです。

城は「山上」と「山下」の2つの曲輪からなり、山上の丸には初重平面十間四方(?)の大きな二層天守櫓がありました。

この天守櫓は布勢天神山城の三層天守を移築したものと伝わり、池田長吉のときに建材の老朽化が著しく、二層に改められたと言われています。

この天守櫓は1692年(元禄5年)に落雷で焼失、以後二の丸の御三階櫓が鳥取城を象徴する天守代用の櫓として認知されていたようです。

建物は明治時代に撤去され、現在は中世山城の面影を残す山上と近世城郭として整備された山下の美しい石垣や堀を遺していますが、1906年(明治39年)、扇御殿跡に旧藩主池田氏によって建てられた「仁風閣」は文明開化期の洋館の建築様式を伝える貴重な遺構として重要文化財に指定されています。

交通

JR山陰本線「鳥取」駅から日交バス・日ノ丸バス「砂丘・湖山方面行き」で約5分「西町」下車、徒歩約5分で上り口、上り口から山上の丸まで徒歩約30分。鳥取市100円バス「くる梨 緑コース」、休日および夏季運行の観光バス「ループ麒麟獅子」では鳥取城の堀端から乗下車可能。

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