【お城】福山城 -Fukuyama castle-

日本100名城 No.71:福山城

福山城復元天守
伏見櫓(左・国重要文化財)と湯殿(右・復元)
筋鉄御門(国重要文化財)
TECHDさんによる写真ACからの写真

基本データ

  • 築城年代:1619年(元和5年)
  • 別名:久松城 [Hisamatsu-jō]、葦陽城(Iyō-jō)
  • 構造:平山城
  • 築城者:水野勝成 [Mizuno-Katsunari]
  • 主な城主:水野氏 → 松平(奥平)氏 → 阿部氏
  • 所在地:〒720-0061 広島県福山市丸之内1丁目8
  • 管理団体公式サイト:福山市立福山城博物館

概要

福山城は1615年(慶長20年)の一国一城令発布後の元和8年(1622年)に竣工した城である。大規模な新規築城による近世城郭では最後の例となった。備後福山藩の藩庁かつ藩主の居城であった。形式は輪郭式の平山城だが、2重の堀や瀬戸内海へ抜ける運河を持つために海城としても知られる。五重の天守と7基の三重櫓を有していた。

参考:福山城 (備後国) – Wikipedia

元和5年(1619年)、安芸・備後(広島県)を治めていた福島正則は、広島城の無断修築の咎により信濃川中島(長野県)へ改易となりました。

徳川秀忠は正則の旧領のうち、備中西南部と備後南部10万石を譜代の家臣・水野勝成に与え、いったん神辺城に入りましたが、西国の有力外様大名に対する監視・防衛強化という徳川幕府の要請もあり、より堅固な城を新たに築くこととなりました。

ちなみに、この頃はというと、4年前に元和の一国一城令(1615年)が発布され、諸大名は領内の支城築城は原則禁止となるわ、既存の支城は破却させられるわ、天下普請に出費させられるわで、築城・改修ブームもほぼ沈静化していました。まさに徳川幕府の支配体制もほぼ盤石といえる状態でした。

そうした中で、福山城の築城における徳川幕府の注力ぶりは異例ともいうべきもので、勝成に伏見城の遺材流用といった資材の現物供与のほか、資金援助まで行っており、実質「天下普請」に近いプロジェクトとして進行しました。

縄張りは標高約20mの小高い丘に本丸を配置し、二の丸、三の丸が取り囲む輪郭式の平山城で、本丸には付櫓を持つ5層6階の天守がそびえました。

この天守がまたユニークで、白亜の層塔式という徳川的なカラーと、最上階に廻る高欄や華頭窓、付櫓といった豊臣的な桃山様式を折衷している。

この時期に天守付櫓を持たせるあたり、やはり実戦を視野に入れた徳川幕府の慎重な武備を伺わせます。。

さらに福山城天守の最大の特徴として、東・西・南面は白亜の総塗籠でしたが、北面は鉄板張りであったようで、これは防御が手薄であった北面からの攻撃に備えたものであったといわれています。

1698年(元禄11年)、水野氏の無嗣除封にともない一時幕府直轄領となりますが、1700年(元禄13年)に松平忠雅が、次いで1710年(宝永7年)には阿部正邦へと代わり、幕末に至るまで徳川譜代10万石の居城として機能しました。

天守や伏見櫓、筋鉄御門、御湯殿は旧国宝として保存されていましたが、1945年(昭和20年)の福山大空襲で天守、御湯殿などを焼失しました。

現在跡地に立つ天守は1966年(昭和41年)に福山市制50周年記念事業として月見櫓、御湯殿とともに復元されたもので、内部は博物館となっています。


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交通

JR山陽本線・山陽新幹線「福山」駅から徒歩約5分

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最後に。。

福山城は福山駅から目と鼻の先なので、完全に城目当てに福山を訪れるなら、中心部で完結しちゃうんだけど、観光地としての福山をじっくり満喫するなら、やはり瀬戸内海に面した市内南部の風光明媚な港町「鞆の浦」は外せないでしょう。「崖の上のポニョ」に登場する舞台のモデルとしても知られています。

それでは。

書籍

※2020/11/23 更新

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