日本100名城 No.47:伊賀上野城



※松波庄九郎さんによる写真ACからの写真
基本データ
- 築城年代:1585年(天正13年)、1611年(慶長16年)
- 別名:白鳳城 [Hakuhō-jō]
- 構造:平山城
- 築城者:筒井定次 [Tsutsui-Sadatsugu]、藤堂高虎 [Tōdō-Takatora]
- 主な城主:筒井氏 → 藤堂氏
- 所在地:三重県伊賀市上野丸之内106
- 管理団体公式サイト:伊賀上野城
概要
1585年(天正13年)、羽柴秀吉による領国内の国替えにより、大和国から伊賀国に移封となった筒井定次は、上野台地に位置する、天正伊賀の乱で焼け落ちた平楽寺、仁木古館跡を改修し、上野城を築きました。
筒井氏時代の上野城には3層の天守がそびえ、秀吉死後の関ヶ原の戦いにおいても東軍に属し、引き続き伊賀の支配権を安堵されていましたが、1608年(慶長13年)の「筒井騒動」により所領没収(その後自害)となりました。
筒井氏に代わり、伊予宇和島城から築城術の名手として名高い、藤堂高虎が伊勢・伊賀2国22万石で入封しました。
徳川家康の要請により、大坂城(豊臣氏)を牽制する拠点として高虎は上野城の大改修に着手します。
本丸には高さ約30mに及ぶ日本一の高石垣を築き上げ、塁上には5層の天守を建築していましたが、建造途中に暴風雨で倒壊し、以後再建されなかったようです。
大坂の陣を経て、一国一城令発布後も、伊勢の本城(津城)、伊賀の支城(上野城)として、幕末まで藤堂氏の支城として存続しました。
現在、本丸にあがっている3層の模擬天守は、1935年(昭和10年)に伊賀上野出身の政治家・川崎克が私財を投じて木造で建てられたものです。

城郭ファンの間ではすこぶる評判のよくない昭和の模擬天守・復興天守。
だけど、伊賀上野城は木造という点でとりわけ好感度が高い模擬天守じゃないだろうか。川崎克さんの地元への社会貢献にあらためて敬意を表したい。
白亜の壁を覆うようなデカい破風が大味でちょっと見栄っぱりな感じもするけど…と思ったらガチで見栄はってた(以下引用)
伊賀上野城、外観華美にしたら雨漏り?修復に数億円
昭和初期に建てられた木造の伊賀上野城天守閣(三重県伊賀市上野丸之内)で台風時に起きる雨漏りが、建物の高さのかさ上げや外観の装飾追加など、建設途中で施された設計変更に原因があることがわかった。本格的な修復には最低2年の休館と数億円が必要と見込まれるという。
城の正式名称は「伊賀文化産業城」。1932年に当時の衆院議員川崎克(1880~1949)が私財を投じて着工、35年に完成した木造3層のしっくい塗り。雨漏りは20年以上続き、天守閣を管理運営する公益財団法人伊賀文化産業協会が原因を探るため、構造調査を2017、18年度の2回、津市の歴史的建造物保全・修理設計会社へ委託していた。
6日に協会の理事や評議員ら約30人を集めて開かれた調査報告で、2層目外壁の柱が1層目の柱とつながっておらず基礎の支えがなく、2層北壁を中心に最大14センチ沈下していると判明。2層目の天井と3層目の床の間が約2・2メートルの中空になり、その間を1メートルほどの短い柱がつなぐ構造だとわかった。
調査会社の担当者が「違和感を覚える」とする構造の理由も、調査後に見つかった研究論文や城史の内容から明らかにされた。それによると、工事が進んでいる段階で天守閣の高さを20メートルから23メートルに変更。当初の設計では1、2層に1カ所ずつだった破風も両層の全面に付け、外観が華美になるよう複数の部分で変更が加えられていた。
この建築途中での設計変更の影響で、2~3層目に縦にも横にもずれやすい構造が生まれ、台風の暴風雨で1、2層部分が雨漏りするとみられる。
2019年6月10日 朝日新聞デジタル
設計に問題があったとはいえ、令和のご時世に昭和10年の木造建造物が残ってることは貴重だと思うので、維持できることを願いたい。
交通
伊賀鉄道「上野市」駅から徒歩約8分

周辺の気になるグルメスポット
- レストランito (伊賀牛のステーキが食べれる洋食屋)
- くノ一家 おもてなし処 愛間亭 (伊賀ならではの店名にそそられる。甘味メニューも豊富なので登城前後の一服に良さそう)
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書籍
※2020/11/23 更新